[出典https://www.youtube.com/watch?time_continue=67&v=oA7fQRdcFgU]
映画「未来のミライ」観てきました
どうもノリです。
そういえば最近映画観てないな~と思ったので、細田守監督の最新映画「未来のミライ」を観てきました。
平日の夜、いわゆるレイトショーで行ってきたんですが、夜は料金も安くなるし人も少ないしで最高ですね。
映画が終わるとだいたい夜11時ぐらいになるんですが、この時期だと昼のように暑くないし駐車場ほとんど空いてるしで正直最強だなと思いました。
話を戻しまして、細田守監督作品というと、僕的にはサマーウォーズが好きです。
今回の「未来のミライ」はどうかな~と観てきた感想と、僕が感じたこの映画の2つのメッセージを書きたいと思います。
まずその前に、
「未来のミライってどんな映画なん?」
という人のために簡単にですがあらすじを説明します。
「未来のミライ」ってどんな物語?
「バケモノの子」「おおかみこどもの雨と雪」の細田守監督が手がけるオリジナルの長編劇場用アニメーション。
甘えん坊の4歳の男児くんちゃんと、未来からやってきた成長した妹ミライの2人が繰り広げる不思議な冒険を通して、さまざまな家族の愛のかたちを描く。
とある都会の片隅。小さな庭に小さな木の生えた、小さな家に暮らす4歳のくんちゃんは、生まれたばかりの妹に両親の愛情を奪われ、戸惑いの日々を過ごしていた。
そんな彼の前にある時、学生の姿をした少女が現れる。彼女は、未来からやってきた妹ミライだった。
ミライに導かれ、時を越えた冒険に出たくんちゃんは、かつて王子だったという謎の男や幼い頃の母、青年時代の曽祖父など、不思議な出会いを果たしていく。
これがアニメ声優初挑戦の上白石萌歌がくんちゃん、細田作品は3度目となる黒木華がミライの声を担当。両親役に星野源、麻生久美子、祖父母役に宮崎美子、役所広司。
[出典 https://eiga.com/movie/88326/]
今回の細田守作品は一つの家族を中心に物語が展開するという、サマーウォーズの時のような「人類の命がかかっている~」というような緊張感はなく、どちらかと言えばスモールスケールな作品でした。
あとがきにもあるように4歳児のくんちゃんの家の中庭には木があって、くんちゃんになにかトラブルのようなものがあると、その木のある中庭からタイムスリップ(過去や未来)のような現象が起きて物語は進んでいきます。
まあそれはそれでいいんですが、僕がこの未来のミライについて少し気になったというか、どちらかといえば「ノリ的ダメ出し」を先にいくつか言いたいと思います。笑
まずタイトルにもあるように、未来のミライちゃんが中心の物語なのかと思いきや、物語の主役はほとんど4歳児の男の子「くんちゃん」で、ミライちゃんは物語の説明役のために存在しているというか、タイトル名に使う割には印象薄めな感じでした。
この割合ならタイトル自体「くんちゃんの~」ぐらいにしとかないと、
「あれ?ミライちゃんほとんど出てこないやん」
と違和感を持たれても仕方ないなと思いましたね。
この違和感に関して少し調べてみたところ、今までの細田守監督の大ヒット作品「時をかける少女」と「サマーウォーズ」の脚本は奥寺佐渡子さんが単独で手がけていて、他のヒット作品の「おおかみこどもの雨と雪」と「バケモノの子」も奥寺さんと細田監督が共同で脚本を手がけています。
そして今回の未来のミライは細田監督単独での脚本作品なので、そのあたり今までの作品との脚本の完成度の差が少し出たのかな~と感じました。
物語は先ほど言ったように4歳児のくんちゃんを中心に進んでいくんですが、僕のようなひねくれ者には正直あまり共感を持てない部分もありました。
というのも、くんちゃん家族設定自体が一言で言えばすべて「リア充」なんですね。
- 比較的裕福な感じの一戸建てに住んでいる。
- 両親も健在で健康でいわゆるすげーいい親。
というような、世間一般からすればかなり満たされている環境(本人は思ってなくても)という設定自体が、僕のような曲がった人間からすると共感しにくいなと思いました。
だいたい僕の好きな設定は陰陽でいえば「陰」、人間の闇の部分なので過去の映画でいえば「いぬやしき」とか、漫画でも「東京喰種」のような設定だと結構共感できるんですよね。笑
(´_ゝ`)しらんがな
そしてくんちゃんはまだ4歳児だから仕方ないといえば確かにそうなんですが、「下の子(妹のミライちゃん)ができたら親がかまってくれない」とやたらグズりまくる姿を見てて半分くらいは共感できても100パーセント、
「くんちゃんかわいそう~」
とまでは共感できなかったですね。
あとくんちゃんのお母さんも子育て期でイライラしているのはわかるんですが、あんなにいいお父さん(声は星野源)でもこれだけ怒っているって事は、ちょっとでも変なお父さんだったらすぐ離婚なんだろうな~という変な危うさも勝手に感じてしまいました。笑
あれだけ奥さんに上から目線で言われても、一切怒らずに言うことを聞いているお父さんの包容力は素晴らしいな~と、あくまで男性目線ですが感心しましたね。
あと、
「雛人形をしまうクダリ長くない?」
「くんちゃんがシッポつけて犬になるシーンいる?」
とか、最後の方にくんちゃんが迷子列車に乗せられそうになったシーンで、嫌いになっていたミライちゃんを助けようとするシーンで、
「なんでいきなりここにミライちゃんいるの?」
とかあまりスッキリしない場面もあったんですが、まあダメ出しはこのへんにして次は僕がこの未来のミライという作品を見て感じたメッセージを書きたいと思います。
「当たり前」は失ってから気づく
物語の後半にくんちゃん一家はお出かけをしようとします。
その時にくんちゃんはいつも通りのイヤイヤ期でグズリまくって、
「もう行かない!」
と隠れているうちに家族みんないなくってしまいます。
不安になったくんちゃんが木のある中庭に行くと、未来へとタイムスリップします。
そこで駅のような場所で高校生になった未来の自分に会い、
「わがままばっかり言うな!」
と未来の自分に説教されるんですが、4歳児のくんちゃんに言ってもね~(笑)という感じで物語は進みます。
その後、駅に列車が到着して未来の自分に「乗るな~!」と止められるんですが、くんちゃんは無視して列車に乗ってしまいます。
その後くんちゃんは未来の東京駅に到着します。
ここでのアニメーションの映像美はさすが細田守監督といった感じです。
東京駅という人混みの中、一人で来たくんちゃんは当然迷子になります。
甘えたくてもお父さんもお母さんもいません。
途方にくれたくんちゃんは迷子センターのような所に行き着きます。
そこで両親の名前を言えれば迎えに来てもらえるんですが、4歳児のくんちゃんには親の名前をフルネームで言うことができず、迷子の子供たちが乗る迷子列車に乗せられそうになるんですね。
この迷子列車は見た目にとてもおどろおどろしい雰囲気で、幽霊列車のような姿をしてます。
その列車をみたくんちゃんは当然ビビってしまい、そこから無理やり迷子列車に乗せられそうになったりとくんちゃんは大変な思いをするわけですが、くんちゃんはここで親の存在の有り難さが分かるわけです。
親がいる事が当たり前の時は、そういった有り難みがわからないんですが、失う事によってはじめてその大切さがわかります。
日常の中の当たり前の有り難さというものは、なかなか気づく事が難しいです。
逆にいえば、目の前の当たり前を疑うことで実はそれが、
当たり前(有り難さ)=幸せ
なんだと気づくきっかけにもなります。
くんちゃんはまだ4歳児なのでそこまでの事は考えられないと思いますが、僕はこの映画のメッセージの一つだと感じました。
「今」という自分は過去からのバトンで存在している
この未来のミライは先ほども説明したように、くんちゃんが中庭の木の場所に来るとタイムスリップのような「パラレルワールド」を往き来しながらストーリーが進んでいきます。
このタイムスリップは過去にも未来にも行く事ができて、先ほどのくんちゃんの迷子のシーンは未来に行きました。
そして過去のシーンの場合は、この映画のまた違ったメッセージがありました。
過去に行くシーンはくんちゃんのお母さんがまだ小さい頃の話や、くんちゃんから見てひいお爺さんと出会う場面があります。
小さい頃のお母さんは今の自分と同じで、
「おもちゃ片づけなさい!」
と母親から怒られて怯える様子が描かれていました。
今現在はしっかり者に見えるお母さんも、自分と同じ子供の頃は全然おもちゃ片づけられなかったんだな~というシーンや、母親やお婆ちゃんが厳しくて大変だったんだな~と感じさせるシーンがありましたね。
そして自転車にうまく乗れないくんちゃんが悩んでいる時に、過去にタイムスリップしひいお爺ちゃんに会うシーンがあります。
このシーンの前にくんちゃんが自転車に乗れるように、お父さんと練習する場面があります。
僕も子供と自転車を乗れるように一緒に練習したからわかるんですが、ちょっとお父さんの教え方が下手過ぎるのが気になりました。。
ちなみにまた余談ですがこのひいお爺ちゃんの声優が福山雅治さんで、独特な低音からのめちゃめちゃイケボ(イケメンボイス)でしたね。笑
あの声でご飯お茶わん2杯はイケます。笑
( ´∀`)Σ⊂(゜Д゜ ) ばかやろう!
ひいお爺ちゃんがくんちゃんを馬やバイクに乗せてくれて、
「何があっても遠くだけを見る、、」
というアドバイスや男気を注入され、そのおかげでくんちゃんは見事自転車に乗る事に成功します。
このひいお爺ちゃんは時代的に戦争の時で、その戦争中に爆撃に直撃したひいお爺ちゃんは海に投げ出された上に足を負傷してしまい、命からがら必死に泳いで助かります。
その影響で歩行が困難になってしまうんですが、ひいお爺ちゃんの生き方はカッコよくてまさに「漢の中の漢」といった感じでした。
くんちゃんのひいお婆ちゃんにあたる女性に求婚するシーンで、結婚の条件が「駆けっこで私に勝てたら」という条件でも、動かない足を引きずりながら決して諦めずに走る姿に、ひいお婆ちゃんも心を動かされて結婚に至りました。
これは「たら、れば」な話になりますが、ひいお爺ちゃんが爆撃を受けて生きる事を諦めていたら、くんちゃんは存在していません。
ひいお爺ちゃんが足が動かないからといって、最初っからひいお婆ちゃんの事を諦めていてもくんちゃんは存在していません。
そうした一つ一つの行動が未来に影響を及ぼします。
今存在しているという事は、どんな人でもご先祖様が繋いできた命のバトンがあるからです。
だから今生きてるって事はなんか当たり前のように感じますが、先人のそうした繋がりや想いがあるからだと考えるとある意味で奇跡とも言えます。
まとめ
このブログのタイトル名もそうですが、人生とは自分が生きてるんじゃなく「生かされている」、まさに「人生とはもらいもの」だと僕は思っています。
悟り系や「非二元」のようなお話では、
- 「意味も価値もない」
- 「私はいない」
というような言葉があります。
こういう言葉は確かに視点によっては間違いではないんですが、先ほどのくんちゃんのひいお爺ちゃんのような「命を繋ぐ」という視点で見た時、この悟りの視点こそ意味も価値もない言葉だなと僕は思います。
やはりこの世界に存在しているという事は、人それぞれに何かしらの理由や目的や意味があります。
この未来のミライという映画を観た時、個人的にそういうメッセージも感じました。
最初のほうであえていろいろダメ出しもしましたが(笑)、、この未来のミライという映画は全体的にストーリーのテンポもよく大人も子供も楽しめるし、
- 「失う事で見える有り難さ」
- 「受け継がれる命のバトン」
と、とてもメッセージ性のある作品だと僕は思います。
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