気をつけたい「いまここ」の取り扱い方
今回はスピリチュアルというよりもどちらかと言えば、悟り系や禅のお話に出てくる「いまここ」をテーマに書いてみたいと思います。
まず「いまここ」の話の前に、
「そもそも禅って何?」
という人もいるかと思うので、その辺りを少しリサーチしてみました。
そもそも禅とは?
禅(ぜん)は、大乗仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略、もしくは、サンスクリット語の dhyāna (ディヤーナ)の音写、禅那(ぜんな)の略である。また坐禅(座禅)の略としての意もある。本項では宗派についての禅宗について述べる。
概要
南インド出身で中国にわたった達磨が祖で、坐禅を基本的な修行形態とする。
ただし、坐禅そのものは古くから仏教の基本的実践の重要な徳目であり、坐禅を中心に行う仏教集団が「禅宗」と呼称され始めたのは、中国の唐代末期からである。
こうして宗派として確立されると、その起源を求める声が高まり、さかのぼって初祖とされたのが達磨であるそれ故、歴史上の達磨による、直接的な著作は存在が認められていない。
伝承上の達磨のもたらしたとする禅は、部派仏教における禅とは異なり、了義大乗の禅である。 中国禅は、唐から宋にかけて発展し、征服王朝である元においても勢力は健在だったが、明の時代に入ると衰退していった。
日本に純粋な禅宗が伝えられたのは、鎌倉時代の初めごろであり、室町時代に幕府の庇護の下で日本仏教の一つとして発展した。明治維新以降は、鈴木大拙により日本の禅が、世界に伝えられた。
禅宗諸派において、自宗と自宗以外の、すべての教宗とを区別する意味で、禅宗と自称する。
[出典 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/禅]
なんだか小難しい話になっていますが、「達磨大師」という言葉ぐらいは無知な僕でも聞いた事はあります。笑
(´_ゝ`)ほんまかいな
話を簡単にまとめると、禅というものはもともと達磨が祖で南インドから中国に渡り、その後、日本に伝わったのが鎌倉時代の初め頃で、室町時代に仏教の1つとしてその教えが広まったみたいですね。
そしてこの禅の教えの中に「いまここ」という考え方があるんですが、そもそも、
「いまここって何ぞや?」
という事なんですよね。
この定義付けも視点によって変わります。
「いまここ」とは?
その中でももっともポピュラーなものが、
- 目に前の今に集中する
- わたしたちは「今」にしか存在できない
という考え方です。
順番に説明していきますね。
「今に集中する」というのは、例えばあなたが食事をしている時に、
「今週の週末どうしようかな~?」
と食事以外の事を考える場合があります。
この時、確かに週末の予定を考える事も必要かもしれないですが、「今を生きる」という視点で見た時、まず目の前の食事に集中する事が大事です。
なぜ大事なのかと言えば、目の前の食事に集中する事で、より食べ物の食感や味覚を体感する事が出来て満足度が上がるからです。
そして食事の満足度が上がれば、それは回り回ってイコール「幸せ」というものにも繋がっていくからなんですね。
それに似た言葉で2つ目の、
「わたしたちは「今」にしか存在できない」
という言葉にも繋がってきます。
先ほどは食事という「今」を大切にした話でした。
これは食事以外のどんなことにも当てはまる話で、例えばあなたが過去の事を後悔しているとして、その事は確かに過去に起きた事なんですが、当たり前ですけどそれはどこまでいっても過去の事です。
「今」その過去の事をいくら悔やんでも、もう過ぎてしまった事なのである意味どうしようもない事です。
確かに過去の失敗を悔やんで反省して、その経験を糧に未来をより良くするという視点もありますが、それはあくまで一時的な後悔で済ませればいいものであって、「いつまでも」いる場所ではないですよね。
未来というものが今の1つ1つの積み重ねで出来ている事と同じで、過去の1つ1つの積み重ねが「今」という現実を創造しています。
ということは、結局人はいいも悪いも「今」にしか存在できず、これからどんな未来を迎えるかは、
「今をどう生きるのか?」
という自己責任とも言えます。
だから「いまここ」という、
「とにかく目の前の今を大事に生きよう!」
といったマインドは人生をよりよく生きる上で、いい考え方の1つだと僕も思います。
ただいつもこのブログで言うように、この世界は天秤のようなものなので、いい考え方だといってもこの二元性の世界で完璧というものは存在せず、どちらか一方に偏り過ぎれば逆に弊害も出てくる事もあります。
次に、その部分について少し説明してみたいと思います。
本当の「いまここ」の意味とは?
先ほど説明したように、
「いまここ」=「目の前の今を大事にして生きる」
という事は確かにいい考え方だと思います。
ただ、あまりその考え方に囚われてしまうとむしろ害になることもあります。
例えば僕は自営業者ですが、ビジネスをする上で大事なマインドの1つに「ネガティブシミュレーション」というものがあります。
これはビジネス上で起こりえる最悪な事を想定して、そうならないようにあらかじめ何らかの対策を打っておく事です。
これは以前僕が経験したから言えることなんですが、自分のお店の売り上げが右肩下がりになった時に、
「このままだとお店を潰してしまうんじゃないか?」
という恐怖心があるからこそ、それまででは出来なかったような行動(改善)をする事ができました。
「目の前の今に集中する」という近距離の視点は確かに大事なんですが、それ「だけ」ではこの世を生きていく上でちょっとバランスが悪く、状況を未来から逆算するような少し俯瞰して見る遠距離の視点も大事です。
これはちょうどRPGゲームのように接近戦の得意な戦士タイプのキャラクターと、遠距離戦の得意な魔法使いタイプがそれぞれ得意不得意があるようなイメージですね。
また別の視点で言えば、例えばもの凄く過去の出来事に後悔している人がいて、
「あなたのそれはもう過ぎた事だから後悔しても仕方ないの!それよりも目の前の「今」を大事に生きなさい!」
と誰かがアドバイスしたとします。
このセリフを見ると一見正しそうに思えますが、それはあくまで言っている本人目線の視点です。
一言で言えば、押し付けとも言えます。
「いまここというものはこういうものだ!」
というその人の勝手な解釈です。
本来、「いまこことはこういうもの」という定義はないです。
先ほどの例でも、ある視点から言えば「過去に対して後悔している」という「いまここ」を体験している事になります。
もう少し簡単に言えば、
「後悔する」という「いまここ」を体験しています。
という事はどんな人もどんな感情もどんな思いも、それはみんなもれなくそういういまここを体験しているという事になります。
まとめ
逆説的ですが、「いまここにいなければならない!」という概念を手放した時、本当の意味でのいまここなんだと僕は思います。
そういう意味では別にスピリチュアルとか禅の事なんて何も知らない人のほうが、案外いまここな人だったりするんですよね。
というのも人に対して、
「あなたのそれはまだいまここじゃない!キリっ」
と言っている人がいるとして、それはもう「いまここどうこう」以前になんか人としてどうかと思うし、正直そういう人は面倒くさいですね。笑
いまここの本当の意味というのは、視点によってはみんな誰しも常にそうであるもので、別に目指したかったら目指してもいいし、無理になろうとしなくていいし、「型の無いもの」だと僕は思います。
というわけで今回は「いまここ」についてのお話でした。
「そもそも悟りって何なの?」についてはこちら。