スピリチュアルにもある「真理」について考察してみた
今回はスピリチュアルなお話にもよくある「真理」についてお話してみたいと思います。
(´_ゝ`)しんり?
今までこのブログでは、
「真理はない。」
と一貫して言い続けていますが、そういう発信をしようものならそういうお話に詳しい人が、
「あなたは間違ってる!真理とはなんちゃらかんちゃら~」
とマウントを取ってくる可能性がありそうですが、笑 これは誤解のないようにもう少し厳密に言うと、
「真理とはあるとも言えるし、ないとも言える。」
というなんとも矛盾した表現になります。
(´_ゝ`)めんどくさ
真理というのは「視点」によって変わり、それは「人それぞれ」にあって全世界の人間に共通するもはないというイメージです。
「それは具体的にどういう事なの?」というお話の前に、そもそも「真理って何?」という部分をウィキペディア先輩に聞いてみました。
そもそも真理とは?
確実な根拠によって本当であると認められたこと。
ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。真実とも。
[引用元 ウィキペディア]
ウィキペディア先輩どうもありがとうございました。
なんだか分かったようなわからないような、、笑
/(^o^)\ナンテコッタイ
- 「確実な根拠」
- 「本当」
- 「真実」
というキーワードが出てきました。
これらは確かに存在するんですが、それはさっきも言ったように「人によって変わるもの」なんです。
例えば、
「私の一番好きな食べ物は塩ラーメンです。」
という人の場合、その人から見た世界の真理は「一番好きな食べ物は塩ラーメン」になります。
その人の世界では味噌でも醤油でも豚骨でも三つ編み長めのラーメンマンでもなく、「塩ラーメンが一番」という事が確実な根拠であり、本当であり、真実です。
逆にいえば「塩ラーメン嫌い」という人の世界では、「嫌いな食べものは塩ラーメン」という一つの真理になります。
スピリチュアルと真理
またスピリチュアルな世界でいえば、
「私は悟り体験をして悟りました!」
という人の場合、
- 「悟り体験とはこういうもの」
- 「悟りとはこういうもの」
という一つの真理が誕生します。
その人から見た世界では「悟りとはこういうもの」という真理が確かに存在していますが、それは悟りというもの自体に興味すらない「他の人」からすれば、真理でもなんでもないんですね。
よく本などを出している自称悟った人が、
「あなたのそれはまだ悟りではないね~。」
とか言ったりしてジャッジしてますけど、それを聞く方も聞く方なんですが、「悟りではない」と断言する事なんて誰にもできないし、結局のところ「何が本当なのか?」なんて誰にも分からないんですね。
なぜなら「悟り」という一つの真理は、本来「誰のものでもない」からです。
「この話はこの世の真理です!キリッ」
と言っているスピリチュアルグループのリーダーみたいな人も存在しますけど、厳密には「私の中では」という言葉を付け足さないといけないよな~と個人的には思います。
また例えばスピリチュアルにもある「ワンネス」というお話があります。
(え?ワンネスって何?という人は↑リンク先の記事読んで下さい。)
「ワンネスがこの世の真理です。」
と言う人がいる場合も、その人の世界の中ではそうかもしれないけど、ワンネスなんて言葉も知らない近所で犬の散歩をしているおばあさんみたいなおじいさんからすれば、真理でもなんでもないわけです。
たとえワンネスというお話が本当だとしても、この世界のすべての人にとっての「真理」にならないんですね。
なのでこの手の話で、
「あなたは本当の真理について何も分かっていない!」
とマウントを取ってくる人に遭遇したら、、
[画像引用元 emama.net]
ちょっと何言ってるのかわからないんですけど、、
と、そっと離れる事を個人的にはオススメします。笑
真理というのはあるっちゃーあるけど、ないっちゃーない。
あなたの好きなラーメンの味はなんですか?
(ちなみに僕は醤油です。笑)
好きなラーメンを例えに出すとは、素晴らしいですね。
世の中にはいろんな考えの人がいるから、心理の定義もそれぞれ違うと思っております。
でも、「これがこの世の心理」と押し付けるのはいけませんよね。
抽象画の良さがわからない人に、無理やり抽象画の良さを無理やり教えたり、テクノやノイズサウンドの良さがわからない人に、テクノやノイズサウンドを無理やり聞かせるようなものだから。
苦手なものは無理に手を出さなくていいの。
akikoさん、コメントありがとうございます。
それぞれ「好み」や「性質」がありますよね。(^^)