「自分」がいるからこそわかる幸せ
今回は「幸せ」にというものについて、少し掘ってお話をしてみようと思います。
この「幸せ」については、以前にこの記事で書いています。
→幸せになる方法は本でも占いでも風水でもなく自分次第だと思う
この記事でも書いたように、幸せというものは「視点」によって答えが変わります。
ある視点では幸せという「何か」はないです。
(´_ゝ`)なぬ?
なぜかというと人がそれぞれ、
「これが幸せだ!」
という意味や価値をつけている「だけ」だからです。
でもこの視点はこの世で生きていく上では、人によっては少しつまらない視点になるので、笑 今回のお話では幸せはあるという視点で書いていきたいと思います。
以前の記事にも書いたように、幸せというのは「足す」のではなく「引く」事のほうが近道だとお話しました。
今回はこの引くという部分についてもう少しお話します。
あるものを引くと見えてくるものとは?
まずあなたが今このブログを読んでいるという事は、スマホかタブレットかパソコンで見ていると思います。
まずここから分かるのは、あなたは「目が見えている」という事実です。
世の中には目が見えない人がいます。
そういう状態の人たちからすれば、目が見えるという事はとてもありがたい状態です。
そしてスマホ、パソコン、タブレットいずれにしても手を使って操作して今このブログを読んでいます。
という事から分かるのは、腕や手や指があってそして動くという事実です。
世の中には生まれながらや病気や事故で手や腕がない人もいます。
そういう人たちからすれば、自分の意志で腕や手を動かして使えるという事はとてもありがたい状態になります。
そして今こうしてブログを読んでいる事から分かるのは、あなたは確実に「生きている」という事実です。
(もし、あの世から霊体とかで見ている読者さんがいたらコメント待っています。笑)
世界では今こうしている瞬間にも、生きたくても生きられない人たちがたくさんいます。
そういう人たちからすれば、生きていて手があって目が見えて、こうしてブログを読めている「今」ってすごくありがたい状態と言えます。
「もっと背が高ければ、、」
「もっとお金があれば、、」
「もっと容姿がよければ、、」
「もっと○○なら、、」
もちろんこうした、足す幸せを求める事が間違っているという事ではなく、それはそれで僕はアリだと思います。
スピリチュアルの業界では、こういったいわゆる「欲」と呼ばれるものを拒否する傾向にありますが、僕はそれはそれで「別にいいやんかいさ」というスタンスです。
人生のルールはある程度自分が決める事なので、それが「幸せ」と本人が感じるならそういう生き方もいいと思います。
そして先ほど説明したのが引く幸せです。
人は失う事で、それまでそこにあった「当たり前」に気づく事ができます。
この当たり前の中に、幸せが隠れています。
「足す幸せ」はゲーム的に言えば難易度が高いです。
そこに達するまでに、越えないといけないハードル(条件)がたくさんあるからですね。
逆に「引く幸せ」は難易度が低いです。
なぜかというと、今の自分の何かをどうこうする必要がなく、今あるものに気づくだけだからです。
これはさっきも言ったようにどちらの考え方が、
「正しい間違っている!」
という単純な話ではなくて、人生における「幸せ」というものの定義と難易度設定の違いというだけですね。
まとめ
そして第3的な考え方としては、そもそも「幸せというもの自体考えない」という視点もあります。
もう少し雑に言えば、「どうでもいい」という感じです。笑
(´_ゝ`)あらやだ!
ここ少し誤解しやすいのですが、この「どうでもいい」は人生そのものがどうでもいいという虚無的なものではなくて、幸せという概念に対してどうでもいいという事です。
今の自分にある当たり前を疑ってみる。
そうすることによって、どこか遠くにあると思っていた幸せという何かは、案外近くにあるのかもしれないですね。というお話でした。
次は「幸せと世界」についてのお話です。
ノリさん、こんにちは✨
私もノリさんと同じ3番めかなあ…と(笑)
身近なものやまわりのものがあまり視界に入ってこないというのは「自分はこうでなけれは」とか「幸せとはこういうもの」という頑なな思いに覆いかくされてくもってしまう感じなのかなあと思います。
いまもそういう思いはなくなったわけではないのですが、あまり真剣に捉えなくなったというか…(笑)
そうするとまわりのものとか自分の存在が自然と大切に思えてきますね(*^^*)
まさに「なろうとするとなれない」ってやつですね。(^^)